江戸東京野菜 寺島ナス
寺島ナスの特徴
通常のナスよりもやや小ぶりで、皮が固く肉質がしっかりしているのが特徴。「蔓細千成(つるぼそせんなり)ナス」とも呼ばれています。隅田川沿いの肥沃な土地が栽培に適していたことから、寺島村(現在の墨田区)を中心に栽培されていました。ほかの品種よりも早く収穫期を迎える寺島ナスは、文政11年(1828)に発行された『新編武蔵風土記稿』にも「形は小なれどもわせなすと呼び賞美す」と記され、地域の特産品として千住や神田へ出荷されていました。大正時代に起こった関東大震災後、宅地化による畑の減少で生産が途絶えてしまいましたが、2009年に復活を果たしました。
三鷹市
旬の時期
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江戸東京野菜
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八丈オクラ
オクラはアオイ科の植物で、日本には江戸時代末期にアメリカ人によってもたらされました。名前は英語名の「okra」が一般的に使われています。温暖な気候を好むオクラは、東京都では八丈島で栽培が盛んです。八丈オクラの実は15~20cmと通常のオクラよりも大きめで、やわらかくほんのりとした甘味があります。また、さやに角がなく、断面は星形ではなく丸みを帯びているのが特徴です。八丈島では「ネリ」と呼ばれ、生のまま、あるいはサッと軽くゆでて輪切りにしたものにカツオ節をかけて食べます。
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品川カブ
一般的なカブのように丸みを帯びておらず、大根のような細長い形をしています。江戸時代には漬け物に使われ、江戸っ子の食卓には欠かせない存在でした。また、土壌環境が似ている滝野川周辺(現在の北区)でも栽培されており、「滝野川カブ」とも呼ばれていました。明治時代以降は栽培が途絶えていましたが、北品川にある青果店の経営者が、江戸時代の書物に描かれていたカブが小平市で栽培されていた「東京大長カブ」とよく似ていることを発見し、地元・品川の名を冠した江戸東京野菜として復活しました。現在は品川区内の有志の人たちが栽培に取り組み、地元のイベントなどで紹介されています。
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ノラボウナ
ノラボウナの原種は、闍婆(ジャバ、現在のジャワ島)を経由してオランダの交易船が持ち込んだセイヨウアブラナ(洋種ナバナ)の一種「闍婆菜」(ジャバナ)の品種という説があります。江戸時代にあきる野・五日市周辺で栽培が始まり、当時は食用のほかに、種子から油も搾っていました。天明・天保の飢饉では、このノラボウナのおかげで、この地域の住民が救われたといいます。葉も茎もやわらかく、ほんのり甘い、春の訪れを告げる伝統野菜です。毎年3月の最終日曜日には、子生(こやす)神社で「のらぼうまつり」が開催され、五日市産のノラボウナを使ったおやきや大福などの出店で賑わいます。
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千住ネギ
中国から伝わったと言われるネギ。当初は「青ネギ」というほとんど葉を食す葉ネギでした。それが関東に伝わるにつれ白い部分を食べるようになり、改良された結果現在の「白ネギ」なりました。千住ネギは、「白ネギ」として江戸時代に江東区の砂村から千住に伝わった根深ネギの一種で、ねぎ産地で集積地だった千住の名前が付きました。通年栽培されますが、収穫時期によって秋冬どり、春どり、夏秋どりに大別されます。甘くて柔らかいのが特徴でメロン以上の糖度にもなります。江戸っ子に愛された伝統のネギです。
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内藤かぼちゃ
信州の高遠藩主である内藤家の下屋敷が現在の新宿御苑のあたりにあり、その地で栽培されていたことから内藤かぼちゃと呼ばれています。内藤かぼちゃは宿場の名物になり、周辺農家に波及し、角筈村、柏木村で地域野菜として定着しました。西洋かぼちゃとは異なり、水分が多いのに煮崩れしにくく、ねっとりとした味わいがあり、煮物向けに最適と言われています。早生種で、収穫時は緑色ですが熟すとともに橙色っぽい色に変化していきます。果実は外皮が薄くて果肉が厚く、熟しきった頃には果実の表面に白い粉がつきます。また実を裏返して花落ち部分をみると全体が菊の花の様に見えることから「菊座かぼちゃ」ともいわれるようになりました。
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柳久保小麦
江戸時代に現在の東久留米市柳窪の奥住又右衛門が、旅先から持ち帰った小麦を育てたところ、良質の小麦粉がとれ、それでうどんをこねると、香りがたかいおいしいうどんができたという伝承が残っています。その後、第二次大戦前まで東京各地や神奈川県など近隣県でも栽培されました。また、麦の草丈が長いのが特徴で、麦藁は農家の「わら屋根」にも利用され重宝されました。しかし、戦時中の食糧増産のなかで、収量が少ないこと、倒れやすいことなどから作付けがなくなり、「幻の小麦」と言われるようになりました。昭和の終わりに、四代目にあたる奥住和夫氏が農水省生物資源研究所のジーンバンクに保存されていたタネを譲り受けて栽培が復活しました。現在、改めて品種が見直され、多くはありませんが市場に出荷されるようになりました。
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谷中ショウガ
谷中生姜は、かつて荒川の地で栽培されていました。谷中本村(現西日暮里一丁目、二丁目付近)で栽培された葉生姜、それが本来の谷中生姜です。谷中は水に恵まれ、排水も良く、しかも西日に当たらない土地で栽培されていました。三河島や尾久でも栽培されていましたが、谷中本村で栽培されたものはスジがなく香りも良いとして、お盆の際には贈答品としても使われました。栽培には、きれいな水と西日の当らない場所が必要とされ、谷中本村はその栽培に適した場所だったのです。関東大震災後、都心部の市街地からの人口流入等により、農地は格段に減り、戦前には、ついに谷中生姜は栽培されなくなりました。谷中ショウガは、「盆ショウガ」ともいわれ、夏の盛りの食欲増進のために、江戸っ子の食卓に上りました。根茎がまだ小さく柔らかいうちに葉が付いたまま若取りしたもので、主に小生姜と呼ばれる小ぶりの生姜品種が用いられます。葉生姜の根茎は柔らかく、辛味も一般的な生姜ほど強くありませんが、風味がよく、生のままかじることも出来ます。芽の付け根の赤みが強く出ているものの方が良品として扱われています。
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練馬ダイコン
江戸幕府五代将軍・徳川綱吉がビタミン類の不足による脚気や鳥目を患い、治療のために食したことから栽培を命じたといわれ、大きいものは80㎝~1mにもなります。尾張ダイコンと練馬の地ダイコンとの交配から選抜・改良されたもので、享保年間(1716~1736)には練馬ダイコンの名が定着していきました。一般に流通しているダイコンに比べて、土から引き抜くのに3~5倍の力が必要な練馬ダイコン。引き抜くスピードなどを競う「練馬ダイコン引っこ抜き競技大会」(毎年12月1週の日曜に開催)が平成19年(2007)から始まり、近年では500名を超える参加者が集まる一大イベントとなっています。
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伝統大蔵ダイコン
江戸時代、豊多摩郡(現在の杉並区あたり)の「源内」という農民が作り出した「源内つまりダイコン」が原種。それが世田谷区大蔵原に伝わり、昭和28年(1953)に石井泰治郎が品種登録し、昭和40年代までは世田谷の各所で栽培されていました。一度は姿を消した大蔵ダイコンでしたが、「世田谷区内の農産物をPRするためにも地元ゆかりの野菜である大蔵ダイコンを見直そう」と、区内農家が平成9年(1997)度から再び栽培を開始。伝統大蔵ダイコンは平成14年(2002)に本格的に復活させたもので、以前からある大蔵ダイコンと区別するために「伝統大蔵ダイコン」として平成23年(2011)から販売を始めました。
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亀戸ダイコン
根が30㎝程度の短いダイコンで、先がくさび状に尖っているのが特徴。文久年間(1860~1864)の頃から昭和初期まで、亀戸香取神社周辺で栽培されていました。この周辺は、荒川流域の肥沃な粘土質土壌だったため、ダイコンづくりに適していたといわれています。特に明治の頃は盛んに栽培され、「おかめダイコン」「お多福ダイコン」などと呼ばれていましたが、大正初期に産地の名を付けて「亀戸ダイコン」と呼ばれるようになりました。毎年3月には、亀戸ダイコンを奉納する「福分けまつり」が亀戸香取神社で開催されています。根も茎も葉もクセがなく、シャキシャキとした食感で浅漬けにすると格別です。
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金町コカブ
明治末期、金町(現在の東金町)の長谷碌之助が、早採りできるように改良したといわれています。当時は、千住青物市場(現在の足立区にあった)に出荷され、高級料亭等に高値で取り引きされていました。金町コカブは、春に花芽が出にくい性質をもっているため、春に栽培がしやすい特性を生かして、金町一体で盛んに生産が行われるようになり、さらに東京から全国に広まっていきました。青物が乏しい春先、霜や寒さで傷んでいない青々とした葉や、真っ白で光沢のあるカブは、春を告げる野菜として大変喜ばれました。冬の寒さにあたると甘味が増し、煮崩れしにくいので、炊き合わせや煮物にも向いています。
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ごせき(後関)晩生小松菜(伝統小松菜)
江戸幕府八代将軍・徳川吉宗が鷹狩りに出かけた際、小松川村(現在の江戸川区)で休息し、そこで接待役を務めた亀戸香取神社の神主が、青菜を彩りにあしらった餅のすまし汁を差し出しました。それを将軍がいたく気に入り、この菜を地名にちなんで「小松菜(コマツナ)」と命名されたと伝わっています。冬場でも栽培しやすく、霜にあたると旨味が増すことから、関東周辺で盛んに栽培されるようになり、早生、晩生の多くの品種が生まれました。現在、一般流通されているコマツナのほとんどは、病害虫に弱いなどの伝統小松菜の弱点を解消するために、中国野菜の青梗菜などとのかけ合わせで作られた品種といわれています。
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馬込半白キュウリ
上部が緑色で、そこから先に向けてだんだん白くなるこのキュウリは、馬込村(現在の大田区馬込地区)が発祥。馬込村では、昔から大井節成(ふしなり)キュウリが多く栽培されていましたが、明治時代に馬込中丸の篤農家・河原梅次郎が、この大井節成キュウリにウリを掛け合わせて改良したのが「馬込半白キュウリ」です。長さは20~25㎝程で現在のキュウリに比べて太く、両端が丸いのが特徴。キュウリ本来の風味が強く、みずみずしくパリッとした食感があり、古くからぬか漬けに使われてきました。生に味噌を付けたり、薄切りにしてサラダや和え物にしたりしてもおいしく味わえます。
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拝島ネギ
鍋料理に欠かせないのが長ネギ。拝島ネギは、生では辛味が強いですが、熱を加えることで甘味が増すため、鍋料理に最適です。昭和初期に茨城県の水戸から持ち込まれ、作付けが始まった拝島ネギは、その後も平成10年(1998)までは市場出荷していました。しかし、やわらかい特性のため栽培が難しく、育てやすい新品種が出回るにつれて生産者は徐々に減少し、一時期は3~4名程度までになりました。平成19年(2007)から昭島市と農家が協力して復活を目指す活動が始まり、平成25年(2013)時点で10名程度が栽培しています。白い根の部分が太めで青い葉の部分はやわらかいのが特徴です。
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八王子ショウガ
鮮やかな黄色味を帯びており、辛味が少ない八王子ショウガ。筋っぽさがなく、みずみずしいのも特徴の一つです。このショウガは八王子市加住町の生産者、村内米吉の祖父・和介が、近所で桶屋業を営んでいた森田弁吉から昭和初期にもらい受けたのが始まりといわれています。以降80年以上にわたり、毎年途絶えることなく生産されてきました。毎年9月に永福稲荷神社で開催される通称「しょうが祭り」は、江戸時代から続く例大祭。ショウガは風邪に効く特効薬として古くから知られ、当日の境内は無病息災を願ってショウガを買い求める多くの人々で賑わいます。
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東京ウド
ウドは、タラの芽などと同じウコギ科の植物で、数少ない日本原産の野菜の一つ。主に山野に自生しています。その歴史は古く、平安時代の書物にも記載があるほどです。東京では、幕末に吉祥寺で栽培が始まり、初ガツオなどのように初物を楽しむ江戸っ子の粋な楽しみの一つでした。東京ウドは、関東ローム層の崩れにくい粘土質が地中深く穴を掘るのに適していたことから、光の入らない「室(ムロ)」と呼ばれる地下3mほどの穴の中で育てられます。この方法は他の産地にはない独特のもので、地下で育てられることから真っ白でアクが少ないことも特徴になっています。
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早稲田ミョウガ
江戸時代から大正時代にかけて早稲田周辺で広く栽培され、大きく赤味を帯びた美しさと香りのよさで徳川将軍家の食膳を彩りました。文京区にある茗荷谷という地名は、このあたりにもミョウガ畑が広がっていたことに由来するとされます。明治時代以降、早稲田周辺は宅地造成が進んだことでミョウガ畑はなくなってしまいましたが、近年になって地下茎が見つかり、平成23年(2011)に復活を果たしました。一般的に食用とされるツボミ部分は秋が旬ですが、茎の部分を遮光して軟化伸長させたミョウガタケは、春から初夏の味覚として親しまれています。
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内藤トウガラシ
現在、新宿御苑となっている一帯は、かつて高遠藩(現在の長野県伊那市)内藤家の下屋敷があった場所で、周辺ではトウガラシが盛んに栽培されていました。収穫時期を迎えた晩秋から初冬は、畑が一面真っ赤に染まるほどだったといわれています。品種は実が大きな八房(やつぶさ)トウガラシで、江戸っ子に親しまれていたソバの薬味などに用いられました。一時、栽培が途絶えた時期もありましたが、指定農家で栽培・生産が可能になったことから、2013年に江戸東京野菜に認定されました。発祥の地である新宿区では、学校で栽培したり、即売会を行ったりして普及に取り組んでいます。
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馬込三寸ニンジン
大田区西馬込の農家・河原清吉らが、明治から大正時代にかけて日本に伝わった西洋ニンジン「砂村三寸」と「川崎三寸」を交配させてつくり出し、昭和25年(1950)に種苗名称登録された比較的新しい野菜です。それまでニンジンといえば、滝野川大長ニンジンのような長さが1mもある長ニンジンが主流でした。この長ニンジンの栽培技術を生かして生まれた馬込三寸ニンジンは、長さ10cmほどで先が丸みを帯びた太くずんぐりとした形をしていて、きれいな色に加えて香りや味もよいのが特徴です。煮物はもちろん、生でもおいしく食べられます。
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シントリ菜
アブラナ科の野菜で、漢字では「芯取菜」と書き、芯の部分をお吸い物などに使っていたことが名前の由来といわれています。また葉の部分に細かいしわがあることから「ちりめん白菜」とも呼ばれています。昭和40年代に江戸川区や葛飾区、足立区で盛んに栽培され、芯はシャキシャキ、葉はやわらかく口当たりがよいことから、当時はチンゲン菜に代わる野菜として、中華料理の炒め物やスープに重宝されました。その後、中国野菜が日本国内でも多く作られるようになりますが、現在も東京都東部で栽培が続けられています。露地もののほか、ハウス栽培も行われています。
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滝野川ゴボウ
長さ1mほど、しなるようなやわらかさをもつ滝野川ゴボウ。栽培が始まったのは元禄年間(1688~1704)のことで、水はけがよい黒土に覆われた滝野川村(現在の北区滝野川)周辺は、ゴボウの栽培に適していました。この村に住む鈴木源吾により品種改良と採種が行われ、豊かな土の香りと食味のよさから全国に広まった優良品種です。国内で栽培されるゴボウの9割以上は、滝野川ゴボウの系統といわれており、練馬区で栽培されている「中ノ宮ゴボウ」や「渡辺早生ゴボウ」も、夏に収穫期を迎えるように滝野川ゴボウから改良されたものです。
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足立のつまもの
ツマモノとは、漢字で「妻物」と書き、さまざまな料理に添えて季節感や風味を演出し、特に和食には欠かせない存在の野菜です。中でも、穂ジソ、ツル菜、木の芽、鮎タデ、あさつき、メカブ、紫芽(むらめ)の7種類が「足立のつまもの」といわれています。江戸時代には、料亭が集まっていた三河島村(現在の荒川区)周辺で多く栽培され、明治から大正時代に隅田川対岸の足立区栗原や伊興地区に広まりました。ピンセットで選別するなど細かな手作業が多く、出荷の際も細心の注意が必要ですが、狭い農地でも栽培が可能なため、現在も住宅地が広がる中に畑が点在し、都市農業の一翼を担っています。